ぱこといいます(仮)

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すべてが許せない

自由にしゃべっていいよ、自由に創作していいよ、しかもそれが別に笑えなくてもいいよと問いかけたら、皆どんなことを喋って、どんなものを創るんだろう。

 

「自由に」というのは、つまり社会性を放棄して、人の反応を気にせず自分の奥の精神を解き放てという意味なのですが。

 

もしかしたら「自由に」じゃなくて、「心のおもむくままに」でもいいのかもしれないけれど、最近の人は表向きの人格の強制力が強いことが結構あったりするので、それをしたところで人に見せている自分や、普段「これがわたし/俺です」と思っているところから作り上げた、自分像の延長にしかならない気もする。

 

じゃあ、だから~そのね、「自由に」創作するとなると、人は何を創るんだろうって話ですよ(急に迫りますけど)。

 

好きにしゃべっていいよ、聞いてるよ、なにか反応は返せるよ、と問いかけたら何をしゃべるんだろう。

 

自分の場合は、人への配慮もせず、老若男女LGBTQ動物自然環境などの立場や状況も気にせず、社会責任や権利についても、人の印象についても一切気を配らないで好きに何かを表現する(「自由」に創る、しゃべる)とするなら、どうするだろうかな。

 

どうするだろう。自問。自問しますね。うーん。

 

そうやって自問すると、

 

自分の場合は、「許せない」という気持ちがまずある。気がする。

 

そこにまつわる小話やら感情の変遷を辿って喋りつくす予感がある。

 

あんまり率直に書くと、野良精神科医に喉笛をかみ砕かれてしまうので、別の表現形式で書こうと思いますが、私の場合はですねえ、わりと生きていると許せないというところに行きつく感情を持っていることはまあ、少なくないのです。

 

しかし、それらはすべて社会や人間関係、他者を慮ったり状況を考えると雲散霧消します。しょーがない。もう人生しょうがない。あの人もしょうがない。自分のことも、色々もうしょうがないあの時のこともしかたない。小さいこと、大きいこと、お互いさま。人生そういうもの。社会もそういうもの。許すだの許さないだの、拘泥するのが面倒だし、自分もしんどい。

 

だから、私の場合は、きっと社会と接するということは「許せないことを許す」と考えて生きている…のかもしれませんね。自分はねえ。難儀なことにねえ。

 

そう、このブログもまた許せない気持ちと、しかしそれらはすべて消失するという、ぱこという深い精神の部分から書かれているのです。

 

ほんとうかな?

 

読んでどう感じるかはわからないですが、ほんとうです。

 

良くも悪くも、ほんとうなんだねえ。これがまた。